潰瘍性大腸炎で寝たきりの状態から復調 右足の合併症も浄霊と食餌療法で治癒

鈴鹿支部 近澤佳紀 『神教』紙平成24年4月号掲載

 私は、生まれる前から家族が本教に入信しており、薬を一切服用することなく育ちました。高校3年間も野球に打ち込み、無遅刻無欠席の健康体でした。しかし、引退してから下血するようになりました。
 平成21年2月頃、母に下血について話すと、驚いた母は、私に食生活の改善を促しました。しかし、症状は改善されず、次第に体力が衰え、体に熱を帯び始めました。
 4月、内定していた会社の研修が始まると、社員の健康を管理する産業医に呼ばれました。血液検査で異常が見つかったのです。赤血球のヘモグロビン数値(血色素)が、成人男性は13.5~17.5が基準範囲なのですが、私の数値は11.9でした。
 そのため、5月の連休中に総合病院で内視鏡検査を行うことになりました。前日から絶食し、2時間前から2リットルの下剤を飲むのですが、私にとって人生初めての薬です。苦痛で汗が噴き出し、息が詰まる思いでした。診断結果は、重度の「全腸型の潰瘍性大腸炎」で、ヘモグロビン数値はたった3.1。生きているのがやっとの状態だと告げられました。
 「即入院し、ステロイドと輸血による治療、あるいは手術が必要」と言われました。母が拒否すると、医師は、「息子さんを殺す気ですか。警察に通報する必要もありますよ」と言い出しました。説得を試みる母を横目に、私は「死にませんよ」とだけ告げて、慌てて逃げ帰りました。
 医師からは鉄剤と炎症止めを渡されていました。私は二度と薬を飲みたくないという気持ちでしたが、母が「働くために薬を飲んで一時的に炎症を抑えてみては」と言うので、渋々薬を服用しました。すると、途端に39度の高熱が出て、両親が一日に何度もご浄霊をしてくれました。
 薬をやめると熱は下がりましたが、右ふくらはぎに発症していた壊疸性皮膚炎という合併症が、拳大の大きさから3日間で倍以上に広がりました。患部から血と肉がまじりあったようなドロドロした汁が流れ、痛みを伴い、歩行も困難になりました。
 連休が明けても出社できず、会社には長期休暇を申請しました。寝たきり状態となり、右足の合併症は膝下からくるぶしにまで広がり、体力はすり減り、起き上がるだけで息が切れ、貧血で何度も倒れました。体重も15キロ減りました。
 6月15日、聖地の地上天国祭にはご参拝に行きたいと思い、まさに死に物狂いでした。千葉から電車で三重県まで行くのですが、3メートル歩いてはしゃがみこみ、息を整えながら向かうのですから、大変な時間を要しました。それでもご参拝できたのは、駅で車椅子を借りられたことや、軽くなった私を父が御神殿まで負ぶってくれたこと、そして何よりも明主様のお蔭です。到着して早々、自然と涙が溢れ出て止まりませんでした。
 その後は徐々に体調が回復へ向かい、合併症の右足には薄皮が張るようになりました。出された薬は全て捨てたので、総合病院からは見放されました。
 診断書を定期的に会社に提出しなければ休みがもらえません。支部長先生から紹介を受け、私は東京の某クリニックを訪れました。そこでは、今まで知らなかった自然食餌療法などを教わり、血液検査も診断書も快く引き受けて頂きました。ヘモグロビン数値は徐々に上がり、合併症もほぼ治り、体重も増え始めました。散歩から徐々に身体を馴らし、支部、聖地参拝、ご奉仕もできるようになりました。
 翌年3月にはヘモグロビンの数値が約10にまで上がりました。そして、そろそろ復職かという頃、再度、会社に内視鏡検査を命じられ、一年前と同じ苦痛を味わいました。何と、結果は以前と変わらず、全く治っていないとの診断でした。驚きましたが、この状態でも元気になれたのは、神様のお蔭だったのだと改めて知りました。
 発病から療養生活に入り、休職していた約3年間のうちに、パソコン資格、危険物取扱者資格を取得し、空いた時間に漢字検定やペン習字講座も修了しました。また、母が不在の際の家事なども、全て自分でこなせるようになりました。
 平成23年12月、勤務先を退社し、就職活動を開始。わずか2回目の面接で採用通知を頂き、お蔭に大変感激しました。現在は、以前からは想像もつかなかった体力勝負の建築現場監督業務に就き、想像以上の給料も授かっております。
 振り返ると、穀菜食の大切さ、添加物、白砂糖の恐怖、医療の誤謬、また己の小ささ、物のみ方、考え方の間違いなど、浄化をしなければ決して学べなかったと思います。少し遠回りした方が楽しいことも多いかもしれないと、今はご浄化を頂いてよかったと思っています。明主様、本当にありがとうございました。